昭和44年9月2日 夜
 今の時代を昭和元禄とさえいう人があるくらいな、太平ムードというか、まあ、太平ムードはいいとして、ええ、安楽をむさぼると言ったような、ああ、刹那主義的な時代だと、やっぱし思うんですね。と同時にやはりあの、信心もやっぱ、そんな感じがいたします。お道の信心でも、やはりその太平ムードの中にある、金光教ということを、やっぱりあの思うてみなきゃいけんと思うし、合楽の教会としましても、やはりあのそんな感じがないじゃない。
 ああ、そこであたくしは思うのですけども、そんならばその、太平ムードとか昭和元禄と言われるその所以というのが、どこにあるのだろうか、ということを、あたくしこの、思うてみるとね、ええ、結局あの、お道の信心で言う、お礼の信心とかお詫びの信心とか、また、願いの信心といったようなものが、こう、まあ、分類されるなら分類されているわけですけれども、その中のお詫びの信心というしみじみとした信心が、欠けておるのじゃなかろうかと思う。
 もう、総てのことの中に、あたくしの信心がいたりませんから、と、わたくしの信心がいたりませんから、という、そういうところに焦点を置いて、あの信心の姿勢というものを、置いてないところに、まあ、元禄ムードと言われるようなものが、あるように思うですね。
 ですから、もう、あの、しみじみと、自分自身の信心を深く反省してみて、そこから、例えば、子供が自分のいうことを聞かない、自分の思うようにならない。どうして聞かんかと言うのじゃなくて、そこになら親が、本気で、詫びていくといったような信心から、わたくしはあの、いわゆるそうした、ああ、ああ、元禄、昭和元禄と言われるようなところから、脱却していくのは、そういう信心に、一つ根を、根ざして信心を進めていかなきゃならんのじゃなかろうか、と、まあ、あたくしは、そんなことを考えておりましたら、今日はその元禄時代の、風景というかね、情景を御心眼に頂くんです。
 合楽も、やはり、そういう、昭和元禄時代的な、信心に、まあ、傾向があるのじゃなかろうか、と。ね。
 本気で一つ、なあんにもない、時が一番危険とさえ言われとるくらいです。ね。平穏無事である時が、一番危険と言われとるくらいですから、どうもそういう、太平ムード的な、ああ、元禄、昭和元禄と言われる、いわゆるそういう時代層と言ったようなものが、あたくし、信心の上にも現われておるような気がする。
 ここをなんとか、しみじみとしたものが、今信心に欲しい時ではないか、また、それが欠けておる時ではないか、と、一つ、大いに反省してみなきゃいけないと思うですね。どうぞ。                         (翠)